プロフィール

KEN

Author:KEN
東海三県を主なテリトリーとするアーキテクト。
アーキテクトの世界ではまだ若輩ですが、日々、建築と格闘中です。
よろしかったら、リンクより、下記↓にもお寄り下さい。
KENのHP http://www.geocities.jp/kenku7jp/

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SYDNEY

2013.11.17

彼はシドニー駐在を2度断った。
20年も前のちょうど今時分の頃。
こわもての営業部のT部長から、会議室に呼ばれた。
穏やかな言葉だったと思う。 シドニーに行かないか、、、
少し考えさせてください、とでも言ったかなぁ?
1週間後、また会議室に呼ばれたが、はっきりとは言わず、言葉を濁して断った気がする。
その年の年末、辞表を出した。20代の後半のこと。

駐在が原因ではない。
何度か海外出張にも行っていたし、シドニーオフィスにも何度か行って、日本人社長や現地スタッフ
とも仲良くなっていた。
日本からもほぼ毎日というくらい国際電話を掛けていた。オーストラリアは日本と時差が1時間程度で同じ時間帯に話せるから、電話でコミュニケーションした方がてっとり早い。

なぜ辞めることにしたか。
仕事が合わない気がした。体調も思わしくなかった。
書店でふと一冊の本を手に取った。
「建築史」の本。

小さいころから、工作や絵が大好きで、親父の工具がつまった小さな倉庫から、鑿(のみ)やカンナ、
のこぎりやドライバーを取り出しては、夏休みには、船やら飛行機、小さな車やイス、それにプラモデルやポスター。
おんぼろを山ほど作った。
でも、たいてい夏休み明けには、工作や絵で、なぜかしら賞状がもらえた。
結構な枚数もらったが、残念ながら今は1枚も残っていない。
本当にただただ無心で夢中で作っていた。夢中でやることほどすごいことはない。
道具を持つと、快感で手が震えるくらいの気がした。
(もちろん震えませんよ、、、震えたら工作つくれません)
本当は大工棟梁か機械屋が天職なのかもしれない。
数学も好きだったな、最後まで数学科も受けようかとも思ったが、なぜかしら全然違う道に
入り込んだ。

そして、20代の後半に、ふと自分の昔を思い出し、その道に入った、戻った。
建築の勉強をし、設計の仕事を始めた。

皮肉なことに、中学の頃、担任のS先生から、将来希望する職業はなにかとの問いに、
さんざん考えたあげく、「設計技師」と書いたのを今も覚えている。
それから10数年もして、やっと、自分に気付き、その道に戻ったのかな、、、

---- さて話は突然現在に飛ぶが、設計は構想を考えているときが一番楽しい。
風呂の中でも、歩きながらでも、喫茶店でお茶しながら、電車の中で、、、、
構想を発酵させて寝かせた後、アイディアはふとした時に、ある意味一瞬で決まる。

実は楽しいばっかではないのが設計。いろいろ地味なことも多いし、水面下ではいろいろ
なことがあって必死にもがきながらやっているのが本当のところ。
知り合いの建築士は、建物完成後、いつももう2度と設計したくないと思うそうだ。
ただ、しばらくすると、またどうしてもやりたくなるとも言っていた。

2度と設計したくないと思ったことはないが、その気持ちも少し?、いっぱい理解できる。
いいものを作ろうと思えば思うほど、そのジレンマも大きい。
最も感じるジレンマは、設計が終わって、施工現場が始まってからだ。
現場が順調に進まない、打ち合わせ通りになっていない、といったことが多いと夜も
ぐっすり眠れない。明日朝一にまた、打ち合わせしないとな、、、

それでもやめられないのが、「建築の設計」。
いろいろなことを受け入れて、なんとかまとめあげ、初めて実際の建物ができあがる。

----- そんなこんなで、あの冬から約20年。 -----
夜おそく、車で飛ばしている時、ふと、昔をことを思い出した。


KEN
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いのちの電話

2012.9.15

彼は、中学生の頃、一度だけ「いのちの電話」に電話したことがあるそうだ。

部活動で随分と殴られた。部活顧問の先生からだ。
もちろん殴られたのは彼だけではない。

朝練夕練でも日常的に殴られた。
紅白戦ともなれば、顧問は審判をしながら、頻繁に試合を止めては選手たちをなぐりまくった。
何十発というより、何百発といった方がいいだろう、一試合で。
指導というよりは、ただ感情にまかせ、殴る蹴る引っぱりまわす、引き倒す。

グランドを見下ろす3階建ての校舎の窓という窓は、その異様な光景を見下ろす鈴なりの生徒で一杯だ。
グランドいっぱいにひかれた白線の内側の顧問と選手、それを固唾を飲んで見下ろす目、目、目。
1階正面にある職員室から無言でながめる校長は、ただ唖然と立ち尽くす。

こんなことが日常的に繰り返される。
親には話したことがなかったそうだ。

それで、ある日、ついに彼は「いのちの電話」に電話をした。
、、、意を決して。。。

家の電話からか、公衆電話からか、覚えていないそうだ。(その頃、携帯電話はない)

いろいろな事情をとにかく話した。電話の相手は、とにかく一通り話は聞いてくれた。
そして、男は落ち着いた声で諭すよう?に、
  「それは君が期待されているからじゃないかな、、、」
                              と言った。

しばらく、頭が真っ白になって沈黙した後、何と言って電話を切ったかは覚えていない。 精一杯のかすかな声で、
  「そうでしょうか、、、、」とでも言ったのだろうか。
   絶望的な気持ちで。

風のうわさによれば、顧問は数年前、校長に昇進し、現在は定年退職したそうだ。

いじめについての問題が多く発生している今日、ずっとずっとずっと昔のことを思い出したそうな。
しかし、決して忘れることはない。
そして、みんなみんなみんなが覚えているんだよ。

KEN
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戦艦大和

2011.10.27

最近、中日新聞で「戦艦大和」の記事が連載されています。
なぜこの時期かと思っていたら、建造70周年とのことです。

沈没時、中部地方からも数百名の方が乗艦されていたとのこと。
世界最大級の戦艦ではありましたが、時代はすでに空中戦。
護衛の駆逐艦はあったものの、空からの攻撃を守る戦闘機は全くなし。(米軍367機に対し、1機も無し)
制空権を完全に握られての魚雷・急降下爆撃により左舷に十発近くの攻撃を受け、昭和20年4月7日、九州南西沖にて沈没しました。

大和建造70年・終戦66年というと、ずっと昔のことのようですが、人類の長い歴史から考えれば、ほんのしばらく前のこと、ついこのあいだのことだと思えるのです。

サイパン島を二度訪れたことがあります。もちろん、観光で行って素敵な海や自然を満喫してきました。
一度目はいくらか若いころ、会社の慰安旅行で行きましたが、戦跡をいくつか訪れたものの戦争のことについてそれほど考えませんでした。
二度目は数年前ですが、まったく違いました。「バンザイクリフ」を訪れた時、涙がとまらなくなったのです。

それはなぜかというと、若くして、幼い子や妻を残して遠く離れたこの地で亡くなられた方々の無念さ、そして残された子供たちのその後がいかなるものだったかを考えたこと。(今、その子らが60代後半から70代でしょうか。。。)
あるいは、20歳そこそこのわが子を兵士として戦地に送り出したご両親のやり場のない悲嘆を深く感じ取ったからです。

バンザイクリフにある慰霊塔はみな、断崖絶壁から深く美しい海をはさんで日本を望む方向に建てられています。
戦争を実際に体験された方々が少なくなって、いずれその本当の悲惨さをだれも想像できない時代となるかもしれませんが、いつまでも日本が平和であることを祈りたいと思います。
そして、戦争で亡くなられた方々に深く深く頭をさげたいと思います。

800px-Banzai_Cliff.jpg



KEN
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19才の僕

2011.2.17

大学生の仕送りが、30年前の水準に落ちているそうだ。
多くの学生がオートロック付のワンルームマンションに住むなかで、生活費はいったいどうしているのだろうか?

浪人をして、全くの想定外であった関東の私大に進むことになった。
基本、愛知県内か京都くらいしか予定にないなかで、センター試験(当時共通一次試験)が予定通り?思わしくなかったので、考えたこともなかった関東、関西の大学を軒並み受けた。

結果、最終的に関東に行くことになった。
そろばん塾以外で、唯一通った塾(河合塾)の掲示板に、新聞奨学生のポスターが貼ってあった。
自分でも予定にない方向となり、親にも相談せずに産経新聞(フジテレビの元?親会社)の奨学生となった。
要は新聞配達です。
今でもこの制度はありますが、当時は入学金・授業料をすべて払ってくれ、加えて数万の手当をくれました。
販売店の一室を住居としていましたから、まったく金はかかりませんでした。
とりあえず、入学金、一年目の授業料・生活費を自分でなんとかしたわけです。

朝はだいたい早朝3:30から4:00起きでしたね。。。。(真っ暗!!)
早朝届く新聞の束に、チラシを一部づつ手ではさみこみ、自転車で配達に飛び出すわけです。
ちょうど今頃の真冬時分に雨が降ると、かっぱを着て帽子をかぶって自転車を2~3時間こぎながら配達するわけですが、その冷たさといったら、大ぶりの雨のつぶがまるで体を突き刺すように、そして体の芯までとことん冷え切らせるわけです。正直、そのつらさ、みじめさはけっこうなもんでした。
夕刊も配ってましたね。 大学から4時過ぎには帰ってきて1時間半ほど配達します。さらに集金や勧誘までしてましたから、しだいに学校からも足が遠のきますね。いきなり留年しそうになる。。。

でも、考えてみるとそんな生活のなかで実は一番遊んだのもこの時期でしたね。。。
誘われて合コンもかなり行きましたし、本木等のディスコ(今のクラブ?)にもよく行っていました。
ただ、明日バイトあるからっていって夜中少し早めに帰った覚えがありますね。

大学2年からは、新聞奨学生をやめ、めでたく普通の学生となりました。
両親も平均的な額を仕送りをしてくれたのですが、おそらく今の学生の仕送りより多かったと思います。
しかも当時アパートは風呂などないのが当たり前(銭湯にいく、神田川の世界だ。。。今の人にはわからんわな。。)で私の場合2万もかかってなかったから、あと数万くらいは生活費、加えてバイトもやってましたから、もしかして、今のこずかいより多かったかも。。。

そうそうそれと、やめる間際に、朝日新聞のお店の娘さん(彼女も配達していた)と知り合いになり、しばらくでしたがお付き合いをしていました。
なんて、いいこともいっぱいあったな~。

なんて、最近の仕送りのことが中日新聞に書いてあったから、なんかほんと30年前のこと思い出してカミングアウトしてしまいました。

みなさんの学生時代はどんなだったですか?
また、みなさん仕送りしている方はたいへんですねーーー、ほんと。
両親に感謝!です。

KEN
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